菅原道真と    
         天神信仰
         

 注 作成中の為、随時補足・修正加筆予定です。              
 又、内容が重複することがあります。                  
   


 



         

系略図                                

天穂日命……野見宿祢……(土師→菅原)                                      

    ・・・菅原古人((曾祖父))清公((祖父))是善((父・四男))道真((三男))                    
       
                         

             
菅原道真家

菅原道真 

すがわら の みちざね

みちまさ・どうしん

承和十二年(845年)六月二十五日 生まれ。
延喜三年(903年)癸亥二月二十五日没。享年五十九歳。
従二位・右大臣。 贈正一位・太政大臣。
別名、菅公
(かんこう)。菅丞相(かんしょうじょう)。菅家(かんけ)
書をよくし、三聖の一人。
「類聚国史」を編し、「三代実録」の撰に参与。
詩文は「菅家文草」「菅家後集」に所収。


兄二人が夭逝した後、是善34歳の時、第三子として生まれる。墓所、太宰府天満宮。
神号、天満大自在天神

祖父
清公
私塾・菅家廊下を開設。多数の秀才を世に出す。
下京区にある、管大臣神社(管大臣天満宮)の地が道真公の邸宅跡で、
紅梅殿・白梅殿や学問所跡。

菅原是善


すがわらのこれよし
平安前期の貴族、文章得業生・大学助・文章博士を経て参議。清公の四男。
名門大伴家である伴氏(名前未祥)
乳母(めのと)
多治比文子
たじひ の あやこ
この文子の夢枕に道真公が立ち、後に北野に祀られることとなった。
初めに菅公を祀ったと云われる邸跡が、京都市下京区にある文子天満宮。
正妻
島田 宣来子
しまだ の のぶきこ
嘉祥三年(850年)~ 没年不詳。
父は道真の師の一人と言われている島田忠臣。
道真が文章生であった貞観17年
(875年)頃、結婚。
嫡男・高視(たかみ)と、宇多天皇女御 衍子
(ひろこ?のぶこ?)の生母と伝わる。
昌泰2年
(899年)五十賀に宇多上皇が御幸の際、従五位下に叙される。
女子
衍子
えんし
(ひろこ/のぶこ)
59代宇多天皇の女御。菅原道真の娘。母は従五位下島田宣来子(島田忠臣女)。
菅原高視らの同母姉妹?

菅原道真と正室島田宣来子の娘。正五位下に叙位された後、寛平8年(896年)11月26日女御宣下、従四位下に叙された。
宇多天皇との間に欣子という名の皇女母?詳細不明。
昌泰2年
(899年)宇多天皇の出家により、10月出家。
高視 寛平5年(893年)に文章得業生。
翌年には三河掾に任官、その後大学頭兼右少弁。
昌泰の変により父に連座して延喜元年
(901年)土佐介に左遷される。
五年後に帰京し、大学頭に復して従五位上となるが、38歳で病死。
淳茂 五男。淳茂も父に連座し播磨国に流刑。
延喜8年
(908年)に散位で対策し、翌年の延喜9年に式部丞として叙爵。
以後、式部大輔・大学頭・右中弁・文章博士などを歴任、延長4年
(926年)に正五位下で卒去。

男子 寧茂
男子 景行
男子 景鑑
男子 旧風
男子 弘茂
男子 兼茂
男子 宣茂
男子 淑茂
男子 滋殖
女子 尚子
女子 寧子
女子 俊子
詳細不明


?-908







尚侍・尚膳
尚侍・斉世親王室
藤原発成室


       
 道真公周辺 略年表  

 
貞観 四年(862年) 式部省試及第、文章生(18歳)
 同 九年(867年) 文章得業生。
正六位下、下野権少掾(23歳)
 同十二年(870年) 対策及第。正六位上。(26歳)
 同十三年(871年) 治部省・玄蕃助。
少内記(27歳)
 同十六年(874年) 従五位下。
民部少輔(30歳)
 元慶 元年(877年) 式部少輔。
文章博士(33歳)
 同 三年(879年) 従五位上(35歳)
 同 七年(883年) 兼・加賀権守(39歳)
 仁和二年(886年) 讃岐守赴任(42歳)
宇多天皇即位
 寛平二年(890年) 帰京
 寛平三年(891年) 蔵人頭。
式部少輔。左京大夫。
兼・左中弁(47歳)
 同 四年(892年) 従四位下、左京大夫(48歳)
 同 五年(893年) 参議。兼・式部大輔。
左大弁。
兼・勘解由長官。
兼・春宮亮(49歳)
 同 六年(894年) 遣唐大使。
遣唐使派遣中止を進言。
兼・侍従(50歳)
 同 七年(895年) 兼・近江守。
従三位、中納言。
兼・春宮権大夫(51歳)
 同 八年
(896年)
民部卿を兼ねる
長女入内、女御。
 同 九年
(897年)
権大納言。、右近衛大将(53歳)
7月 正三位、兼・中宮大夫(53歳) 
醐醍天皇即位(53歳)
 昌泰二年
(899年)
右大臣。兼・右大将(55歳)
島田宣来子 従五位下
 同 三年
(900年)
『菅家文草』『菅相公集(父・是善の詩集)』
『菅家集(祖父・清公の詩集)』を醍醐天皇に献上(56歳)
 延喜元年(
901年)
従二位(57歳)
大宰権帥に左遷。
 同 三年
(903年)
紀長谷雄に『菅家後集』を贈る。
大宰府にて没(59歳)
 同 五年
(905年)
味酒安行、菅原道真の祠廟を建立(現在の太宰府天満宮地
長男高視以下、許されて本官に復す。
 同 九年
(909年)
藤原時平、39歳にて没。
 同十三年
(913年)
長男菅原高視、38歳没。
 同十九年
(919年)
藤原仲平(時平の弟)の奉行により味酒安行建立の廟の上に社(現在の太宰府天満宮)を造営。
 同廿三年
(923年)
四月、道真は右大臣に復され、正二位を追贈。左遷詔書を焼却。
 同廿三年
(923年)
閏四月、天変地異、疫病等を理由に延長と改元。
 延長元年
(923年)
六月二十五日、水火天満宮造営
 延長八年
(930年)
清涼殿落雷事件。
醍醐天皇崩御。
 天慶五年
(942年)
多治比文子に託宣。道真公を祀る(現在の文子天満宮
 天暦元年
(947年)
近江比良宮の太郎丸にも託宣。
多治比文子らと共に協力し北野の地に道真公の祠を移す。(現在の
北野天満宮
道真孫・僧平忠、安楽寺(現在の太宰府天満宮)別当。
 永延元年
(987年)
一条天皇が北野天満宮にて勅祭を行い、天満宮天神の神号を賜る。
 同 三年
(992年)
安楽寺、天満天神の託宣を注進。
 正暦四年
(993年)
5月、正一位・左大臣を追贈。
閏10月、太政大臣を追贈。
勅使菅原幹正、安楽寺に下向。


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  道真公エピソード


 道真公は、醍醐天皇の父である宇多天皇に重用されて
いました。
 当時13歳で元服し帝となった醍醐天皇に宇多天皇は、
儀式次第をはじめ、様々な訓戒を書き記した寛平御遺誡
贈ります。その中でも、右大臣道真公と左大臣時平公を信任
し従うよう、他数人の公卿を重用するように、とあります。
 醍醐天皇を東宮に決めた際も、道真公唯一人に相談したと
書いてあります。それ程、信頼されていたようです。
そしてさらに「道真公は、朕(宇多帝)の忠臣ではなく、
新帝(醍醐帝)の功臣と言うべきだ」とまで言っています。
それにもかかわらず、昌泰の変(しょうたいのへん)が起こ
ります。

 昌泰四年一月二十五日(901年1月) 左大臣藤原時平の讒言に
より、醍醐天皇が右大臣菅原道真公を太宰権帥
(太宰府副長官
・臨時長官)
として、太宰府(筑前国・現在福岡県西部)へ左遷し、
道真の子供、右近中将源善らを左遷(流罪)にします。 

   
東風吹かば にほひおこせよ 梅の花

                   あるじなしとて 春な忘れそ 
                (春を忘るな)


の和歌と、飛梅伝説はあまりにも有名です。
 道真公が流される際のエピソードは大鏡に詳しくあります。
大鏡は藤原氏について書かれたものであり、本院左大臣時平公
の項にも関わらず、勿論左遷事件に関しては避けては通れない
事を除いても、かなりの部分を道真公個人の逸話が占めています。
これは、当時の人々の道真公への関心と噂が並々ならなかった
事を物語っているのでしょう。

 道真公は、大宰府に左遷された二年後の延喜三年
(903年)
亡くなります。
死に挑んで、紀長谷雄の元に菅家後草(正式名称・西府新詩)を
送ったとあります。太宰府左遷後に作られた詩三八編が所収され
ています
 道真の門弟、
味美安行(うまさけ の やすゆき)が、御遺骸を
牛車で運んだところ、牛が伏して動かなくなった為、「これは
菅公の御心である」と、その地に遺骸を葬ります。これが安楽寺
(現在の太宰府天満宮の本殿地)です。
 その伏した牛は神牛とされ、道真公は丑年生まれ、亡くなった
のも丑の月丑の日等々、の理由から、天満宮には牛がいることが
多いようです。

 道真公を左遷した張本人である左大臣藤原時平公も、七年後の
延喜九年(908年)四月四日、三九歳の若さで亡くなります。
時平の家族も、一人を残して、皆四十歳前に亡くなっています。
 また、もう一人の当事者である醍醐天皇も、東宮となった二人
の皇子が二人続けて夭逝します。
ですので、三人目の東宮(醍醐天皇
第十一子。第六十一代・朱雀天皇)は、部屋の中どころか、几帳
で取り囲み隠すように育てたとのことです。
三歳で東宮、八歳で即位します。
しかし、この天皇も醍醐天皇の死後、24歳の若さで亡くなります。
 その他、天災、火事や洪水、凶作とあらゆることが起きますが、
それらはすべて道真公の祟りといわれます。

 延長元年四月(923年)醍醐天皇は、道真公を右大臣の位に
戻した上、正二位を追贈し、左遷詔書を焼却します。
 そして六月二十五日、水火天神天満宮が建立されます。
 
 延長八年(930年)清涼落雷事件が起きます。

 天慶五年(942年)多治比文子に託宣がおり、道真公をお祀り
します(現在の文子天満宮
その5年後にも、近江比良宮神太郎丸に「右近馬場に祠を建てよ」
との託宣があり、太郎丸の父神(みわ)良種は多治比文子を訪れ、共に
北野朝日寺の最珍に神殿建立の協力を願い、天暦元年六月九日
(947年)
北野天満宮が建立されることとなります。


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天神信仰について

 本来、天神とは、
国津神
(くにつかみ)【 国 (地) の神の意
大国主(おおくにぬし)等、葦原中国(あしはらのなかつくに)
・出雲系の神々 】 に対する、

天津神(あまつかみ)【天 (空) の神の意、
天照大御神
(あまてらすおおみかみ)等、
高天原
(たかまがはら)の神々】
のことであり、特定の神の名ではありません。  

そして、雷とは元は、≪ 神鳴り ・神成り≫ であり、雷は空の神の仕業と
されていました。
当時の考え方がよく表れていると思われる和歌の掛詞、
『 天鳴る神の
(そらなるかみの) 』 とは訳すと
【 空に居る神の 】 = 【 空で鳴る神の】 
の意です。
 ですので、天(そら・空)に居る神はどれも天神と言っても間違いでは
ありませんが、上記のように雷をおこすものが、雷神であり天神です。

また、雨は農作物を育てることから、雷・天神は農耕の神でもありました。

 菅公は太宰府へ左遷され、二年後に亡くなりますが、その後に都で
起こった様々な災害の殆どが、道真公の祟りとされ、

災害
(特に天災)は祟り = 道真公 = 天神


という考えが浸透していきます。
 道真公を元の官に戻してもまだ災害は続き(この時、
水火天満宮造営)、
菅公死後27年後にとうとう有名な清涼殿落雷事件がおきます。
余程ショックだったのか、醍醐天皇はその後すぐ病に伏して、3ヶ月後に
亡くなります。
もともと、道真公=天神という話はあったようですが、この清涼殿落雷事件
により、道真公は完全に雷神(天神)としての位置を決定づけられます。

 それらを踏まえて、さらに時を経て、天暦元年(947年)北野天満宮創建を
はじめ、後の天皇からの追贈位や御幸等、道真公を鎮めようとするとともに、
天神信仰と発展します。

 また、神仏集合の進む中で、天神は十一面観世音菩薩と同一視され、
慈悲の神として崇められる様になっていきます。天神は正式名として
「天満大自在天神」という称号を朝廷から贈られてますが、一方で観音は
三十三身に応化するといわれ、その一つに大自在天身がある為と思われます。
 当社にも、宝物の中に十一面観音像があります。(現在は、堀川通西側の
興聖寺さんに預かって頂いています。)
 道真公が優れた学者でもあった為、現代では学業の神様として信仰を集めて
います。

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舞台の道真公                                              

道真公がモデルとなった、舞台類です。
(尊意僧正や、白太夫、他も出てきます。)

雷電
歌舞伎 菅原伝授手習鑑
(四段目の「寺子屋」が有名)
 浄瑠璃


他にも小説や演劇等、数えきれない程ありますが、
古くからあるものとして上記を挙げました。


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 天満宮二十五社巡り

 世に寺社巡りは数々あり、「○○社巡り」と称するものも
数々ありますが、誰が始め、誰が数・順番を決めたかは定か
ではありません。
 また、時代によっても巡る寺社に変容があり、数は同じでも
順番が違ったりもします。
 天満宮二十五社も同様であり、この他にも二十五社巡りの資料
はありますが、現在では残っていない天満宮や、どの社であるか
不明なものもあります。
下記に挙げたものはその内の一つで、道真公没後950年にあたる
嘉永五年(西暦1852)ものです。
 道真公は同時代の人には恐れられていましたが、その後はずっと
変わらぬ人気と信仰の的であったようです。
 近年では、2002年が道真没後1100年とし、各地で様々な催しや
出版物等がありました。
以下、洛陽 天満宮25社巡りの一例です。

       

                                                 
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